合掌
教育勅語を幼稚園児に素読させている。運動会の選手宣誓で子供たちが「日本を悪者として扱っている中国、韓国が心改め、歴史でうそを教えないようお願いします」「安保法制国会通過、よかったです」と唱和している。学校法人森友学園が運営する幼稚園での偏ったメッセージ性の強い光景が連日報道されました。同学園が4月に開校を目指した小学校用地の超破格値での国有地払い下げに端を発した問題に付随して紹介されたものですが、この学園に安倍首相夫妻が関わっていたとされる疑念も生じていることで、参院予算委員会ではおよそ私たちの常識で理解しがたい答弁が連日にわたって交わされました。議論と言うにはあまりにも恥ずかしいような論点のすり替えや感情的なやりとり、売買契約を検証するための重要な交渉記録は契約締結と同時にすべて廃棄した等々、問題解明に向けて誰も説明責任を果たすわけでもなく、党利党略・私利私欲にまみれた国民不在の呆れたやりとりだと言わざるを得ません。さて、渦中の森友学園の教育法について注目してみますと、特に園児たちがそらんじている教育勅語は1948年に「基本的人権を損ない、国際審議に対して疑いを残す」などとして衆参両院で排除と失効確認が決議されているものです。そういう経緯からしても現在の教育現場での暗唱は教育法としては相応しくなく、戦前回帰を進めようとする時代錯誤の教育法と言われても仕方ありません。国有地の不正取得が取り沙汰されている渦中の学校であることもあってその教育方針や実際行われている教育法がクローズアップされ、別の意味でも注目を浴びているところもありますが、国民の血税数億円が絡んだ事件、メディアに対する政権からの圧力もあるでしょうし、今後も委縮報道が大いに危惧されるところですが、国民が納得できる解明を期待したいものです。
ところで、唱和すると言えば私たちも鎮魂行で教典(経典と区別)を唱和します。当然のことながら拳士の中には未就学児童もいることでしょう。しかし、一方的に教育勅語を幼稚園児に素読させているとされる森友学園のケースとは明らかに異なっていることを私たち自身が日頃の修練の中で明確に区別しておかなければならないのではないでしょうか。開祖は先の大戦での敗戦経験から、戦前・戦中下の国の在り方や考え方の反省に立って復興への確かな道筋として少林寺拳法を創始されました。教典には、私たちが目指すべき目的地と、そこへ向かうための道筋と、そのための実践方法が明確に示されています。私たちは拳禅一如の修行を通じて「自己確立・自他共楽」の理念を胸に開祖の教えを実践し続けます。教典はそのための規範であり、道標でもありますが、部外から見た時に果たして今回のケースと区別化されているでしょうか。教育現場で教育法として相応しくないとされている内容であっても結果として子どもの躾に実績をあげているとの声が保護者からあがっていることも事実です。そこに通わせる価値が見出されているということです。少林寺拳法は「教え」と「技法」と「教育システム」が一体となったところにその独自性があります。教育法の一つとしての存在ではなく“生涯修行”としての位置付けも“目指すところ”もそのための方法も決して一過性でないことを含めてこの取り組み全体を広く社会に理解していただく努力を続けていかなければなりません。
今、世界は大きな転換期を迎えています。“自分さえよければ良い”とする時代にそれでも“半分は他人のことを考える”という考え方を実践するには非常に負荷がかかるといえます。それでも確固たる信念を持ってこの教えを実践することが自分たちに課せられていることを忘れてはなりません。
※少林寺拳法“グループ愛知”ポータルサイト構築計画に伴い以下のサイトが立上っています。
(愛知県連盟サイト:https://shorinji-aichi.jp/wp/kenrenにて紹介)
■11支部サイト掲載(スポーツ少年団・大学・実業団)
(愛知県教区サイト:https://shorinji-aichi.jp/wp/kyoukuにて紹介)
■53道院サイト掲載
再拝
2017 年 3月 5日
愛知県連盟理事長 多月 文博